錦糸町あれこれ
錦糸町駅
明治27年12月9日、本所-市川-佐倉間を結ぶ総武鉄道会社の始発駅として開業した。
この鉄道は軍事輸送が目的で、開業当時の駅名は本所停車場といった。
開業以来同駅は、墨東地区の玄関口として大きな役割を果たして来たが、大正12年の関東大震災、昭和20年3月の東京大空襲と、2度の焼失を経て今日に至っている。開業当時の駅風景は、明治の俳人正岡子規の文章に、「枯草の原っぱの中に広からぬ駅舎と一条の鉄道が延びているのが見え、 駅舎の中は人もまばらで、どことなく田舎めいた人が多い。
2町四方ほどの駅構内には、みぞや原っぱや、草むらがあって少し都離れした光景だ」 と書いている。
開業当時は、駅其の周辺は、今からは想像も出来ないほど淋しい鄙びた場所だったようだ。
しかし、この駅とこの鉄道のおかげで、墨東地区は活力に満ちた工業都市として発展することが出来たのである。
開業以来110年を迎えた今現在の賑わいを想像出来たであろうか。時間の重みを感じざるを得ない。
地名の由来
錦糸町という地名が、錦糸堀に由来することはよく知られているところである。錦糸堀は江戸時代に開かれた人工の堀で、現在の錦糸町駅北側JR用地沿いに、西の大横川と東の横十間川をつなぐ水路となっていた。その堀の西側には、大名屋敷や旗本、御家人の屋敷が続いていたと云う。この堀は当時「岸堀」と呼ばれていたが、錦糸堀の名の起りは、その岸堀から転化したものだと云う説と、堀の近辺で琴の糸を作っていたので、琴糸から錦糸と転化したのだと云う、ふたつの説が残されている。
野菊の墓
純愛小説の名作「野菊の墓」の作者、伊藤左千夫もこの地の住人であった。彼は始め政治家を志したが夢破れ、今度は事業家たらんとして、本所茅場町、即ち現在の駅前バススターミナル付近に牛舎付きの住居を購入、牧場を開いた。そして牛乳製造販売業をしている間に、俳人正岡子規を知り、その門下に入って文学者の道を歩き始めたのである。(1900 年)子規没後、「あしび」「アララギ」などを発刊し、アララギ派の歌人として も一家をなした人であった。伊藤左千夫をしのぶ碑が、昭和59年3月、駅前広場に墨田区の手で建てられた。それには次の歌が刻されている。「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして児等があそぶも」(1864 - 1913)
最初のマッチ会社も錦糸町生まれ
日本最初のマッチ製造会社もこの地に生まれた。
明治9年、本所柳原町、現在の両国高校グランド付近に設立された「新 燧 社(ヒウチ)」がそれである。
創業者の清水誠は維新の熱気も覚めない明治3年に渡仏して、マッチの製法を学び、同年8月に帰国して、
芝に仮工場を設置、その後本所で本格的な製造を始めた。
但し明治24年に廃業している。両国高校敷地内に、東京都によって記念碑が建立されている。
東京楽天地
昭和12年、天才的な事業家と云われた小林一三翁の発想で生まれた墨東地区随一の映画、
興行を主とした娯楽センターである。
昭和30年代に入り、映画、興行を主に、温泉、キャバレー、ボーリング他スポーツ娯楽など、文字通り娯楽のデパートを目ざして積極的に多角化を進めていたが、昭和34年10月に当時の社長 那波光正 他 神守源一郎、立花次郎各氏が中心となり錦糸町駅の駅ビル構想を発表。
当時首都圏に駅ビルはなく、今迄手がけた最大の事業も、昭和36年11月27日晴れて開店、
最初の日曜日には20万人もの人が押し寄せ(錦糸町駅の多い時の乗降客13万人)、売上も予想の150%を越えた。
この駅ビルの出現によって錦糸町も東の副都心と云われるようになった。
大火を凌いだ田螺稲荷神社
錦糸町駅南口 江東橋のビル群の谷間に鎮座する田螺稲荷神社。
江戸時代に発生した大火災で、周囲の家が次々と燃えていく中、稲荷の社殿に多くの田螺がびっしりと張り付いて社殿を守ったという逸話がある。